昭和44年05月28日 朝の御理解
御理解 第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
例えば、この九十四節に教えて下さっておる事を、そうだと分からしてもろうて、そこのところを大事にさしてもらう信心。まぁ例えばこれは信者にとこう言うとられますから、教会いわゆる取次者に対する御理解と思いますけれども。それを取次者だけではない、皆んなここのところを頂かして頂く、この御神意とでも申しましょうか。ですからそこんところはどういうところになるかというと、自分に都合のよい人自分に都合の良い人にだけは、それを大事にするけれども。
自分にはあんまり都合のよくない人には、それを粗末にしたり軽く見たりするというような事では、いけんという事になる訳ですよね。例えば教会長の私なら私がです、沢山お供えがどんどん出来る。御用がどんどん出来る人だけをまぁ大事にすると。そういう事ではいけん。それとは反対のような御信者さんでも、それを大事にしなければならないと。ところがなかなかこれはやはりあのう難しい問題ですねぇ。自分に都合の良い人はやはりするなと言わんでもやっぱり都合ようする、こっちも都合ようする。
けれども都合のの悪い人、まぁむしろそういう人と付き合いよると、損になるというような人とはなかなか付き合いたくないもんです。大事にしないのです。けれどそういう事ではいけんぞとこう教えられてございますから、そういうところをね、そういうところを分からしてもろうて、大事にさしてもらうという事になると、どういう結果が生まれてくるか。まか結論を先に言うとね、そういう人が必ず繁昌の元を作るんです。そういう人がおかげの道を開いてくれるのです。もう本当に絶対ですこれは。
私はある先生方の会合でまぁ私の信者時代にお話しを頂いたんですけれども、教会を開く。その町のまぁ有力者、まぁ言うならお金をもっとる。まぁその町にお酒屋さんですね。醸造元お酒屋さんとか、材木屋さんとかと、お米屋さんとかとまぁ昔は、そういう商売をする人達がみんなお金をもっとった。お酒屋さんとか、材木屋さんとか、お米屋さんとか、呉服屋さんとかというとみんなそのうお金持ちであった。お金を持たなければ出来ない商売ですから。
だからそういうのを先ず得意、得意さんじゃないけ御信者にせにゃいけん。そういうところをまずそのう目を付けて、参って来るようなふうにせにゃいけんと。いうようなまぁ言うならば、先生方の裏話をです、私は信者の時代に聞いた事があったんですけれども。はぁそれもそうかなぁと思うておったんですけれどもね。ところがね、実際に例えばなら布教なら布教に出てみて、実感する事される事はどういう事かというと、決してそうじゃないと思いますね。
例えばお参りをして来るのに、それこそお賽銭にすら事欠くというような人達。又は他所には持っていかれないけれどもと言うて、そのういやな問題を持ち込んで来るといったような人達。そういう人達がね神のおかげを分かりね、信心が分かり手厚く信心していくうちにですおかげを受けます。これはある教会の総代さんでありますけれども、家具やさんであった。応接台を専門に作る方。まぁだ福岡で職人をしておられた時分に、ある教会に参られるのに、福岡はみな電車ですからね。
市内電車で参るのに電車賃がなかった。それこそもう昔は職人さんといやぁ、こう半纏を着てましたよね、股引きに半纏を。もう本当に半纏姿でもうお賽銭にも事欠くというような事であった。あすこの先生は大変お徳を受けられた先生ですから、そういう信者を取り立てられて、まぁ段々おかげを頂かられて、福岡から大川の方へ、大川の家具屋、家具専門のね、大川の方に移り住まれるようになり、そちらでもう大川では応接台では、ここが一番というような大きな工場を持たれるようになった。
その人は私がまだ福岡におります時分に、そうでしたその後はどうか知りませんけれども。それまでに大川で三回火事に遭われた。ところが火事に遭うたんびに焼け太りですね。大きゅうなっていかれた。その人なんかは近くに教会があったんですから、教会に参ったんですけれども、そのうお賽銭もないといった状態の中ですから、そこの教会長先生があんまり大事にされなかったんですよ。だからなら私が今行っておる電車で行かなければならないような遠い、そのう教会にお参りする事になって。
そしてそこの先生からまぁ引き立てられてですねぇ。段々家具屋の職人さんから、大川に移り住まれるようになり、そして大川から福岡にやっぱりお参りなさって、そこの教会の総代までなさっておられます。しかもその当時その教会の、まぁ言うならまぁ大黒柱とでも申しましょうかねぇ。「お金の要る時にゃ私がおかげ頂きます」という位なおかげを頂かれた。そこの先生が言うておられました。「あの人はお供えするでも何でもね、自分のもんとは思うとらんらしい。」とこう言われるのですねぇ。
例えばその時分のお金で、金の千円もというならやっぱもう相当ありましたでしょうねぇ。まぁだ十円札じゃない、一円札が幅を利かしとる時代ですから。決してですね普通の時にゃ、そのまぁお初穂もここにこうしてあるけれども、もう金の千円もというところになると、こんなに沢山なりますからね、一円札がこうその時代ですから。それをちょっとこう新聞紙にくるんでから、何んかお弁当箱ばこうさし出すようにしてから、ここにお供えするちゅう。
そこをみるとですね、奉る何の何某というふうに書かんとこは、もう自分のものとは思っていない。神様のものを神様の所へ持って来よるというだけなんです。といったような感じだと言うて、そこの先生がお話しされた事があります。そういう信心が育った。お賽銭にも事欠くという信者が。そこの教会のいわあば大黒柱と言われる位におかげを受けた。例えば三回の火事に遭っても、それっこそやはり火事にあって喜ぶ者はありますまいけれどもです、その都度都度にです信心が大きくなっていった。
三回目のある、私がまだ福岡におる時分でしたが、三回の火事の時には。その時の事を話しておられましたが、火事だと言うので外へ出て、そのう燃えておるその自分の家をですね、見ながらどうぞ心に金光様を唱えながらでしょう。紙と鉛筆を持って来とってから、そのう何か書いておられた。それにねそのう次の工場の設計の事を考えておられた。これは又灰になってしもうたが、これから又おかげ頂かなならんが、時に今度はより又おかげ頂かしてもらわなならんが。
どういう工場を建てようかという事を頭の中に描いておった。それでその事をずうっと箇条書に書いてある。その一番初めに何が書いてあったかと言うとね、親教会への御礼お初穂幾ら幾らと書いちあった。一番初めに。火事の前に火事で自分方が焼けよるのを見てから。お願いしますとは言うけれどもね、その事のお礼お届けが一番口じゃった。その時の箇条書をもって来て、私は火事を見ながらこうでしたというて、そのう話された話しをその先生から聞かせて頂いた。信心も育つという事は有り難いと思うですねぇ。
私は今朝あのこの御祈念に、どういう御理解を頂くであろうかと思うたら、九十四節であったが。この九十四節はまぁ言うなら信者に対する、教祖様の御理解である。信者じゃない取次ぎ者に対する御理解である。信者に不同の扱いをすなという御理解なんです。けれどもこれは信者だけではない。まぁ誰でもが頂かんならん同んなじ理屈。それはどういう事かと言うと、困った問題とか困った人とか。自分にはいよいよ都合の悪い事柄とか、都合の悪い人とか、といったようなものは誰でも嫌うと。
自分に都合の悪い事は誰でもいやでしょが。又自分に都合の悪い人もいやでしょうが。まぁあんやつは来てからお土産いっちょ持ってくる道やぁ知らんふりしてから、もう厚かましくお世話になって、酒まで飲うじからちゃったとがおるでしょうがね。だからそげんとにはかまおうごつもなか。けれどもね。例えばそういうのを大事にせよと。自分には都合の悪い者、都合の悪い事柄、そういう事柄を大事にしてゆけと。そりゃ日々こう生活させて頂く上にゃね、いろいろな事が有りますよね。
都合のよい事悪い事。又は都合の悪い人いやな人。お商売でもさせてもらいますと、たくさん買うてもらうお客さんは、やっぱ有り難い。もう下にもおかんようにやっぱせにゃおられんごとあるけれどもです、もう値切ったり、又はひやかし客であったりするようなのをです、もう鼻の先であしらうようにして、もう、来てもらわんでよかちいうごたるふうな取り扱いをする店がありますよ。そういう所にゃもう又と行くまいと思いますね。けれども初めからひやかし客で行ってとってもです。
手厚く扱われると、ついついいらんもんまで買うて帰る。そしてあの店はなかなかサービスがえぇ、あの店はなかなと言うて却って宣伝までしてやる。ですからま結論から例えばなら結論を申しますとですね。そういうそこにこそですね、そこにこそ本当はおかげがひそんでおるという事ですよ。宝探しと同じ事。皆さん宝探しをやった事が有りますか。もうすぐ目につくごたるとこんとにゃ、よかものは入れちゃなか。けれどもちっとまぁ洋服ダンスとか。応接台とかよかちゅうたら。
そのうよかもんの当たるごたるとはですね、、もう人が扱わんごたるところにです、人の気のつかんごたる所へこう潜ましてあるようにです、本当のおかげというのはそこにあるんです。ですからそういうところをとりわけ大事にしていけとこう言うのです。今日私は御祈念に頂いた事は、あのうなんちゅうんですか、夜光時計ね。枕時計なんかに多いでしょう。電気が付いてなくてもわかるのがありましょ。真っ暗すみに置いといても、何時という事がすぐ分かるね。
明るい時には誰でも分る。なんでもない時にはいかにも例えて言う信者でならば、よか信者のごとしとるけれども、さぁいよいよ暗くなったらです手探りせなならん。それこそ目の前が真っ暗うなったような時にです、却って心に頂いておる大きな光とでも申しましょうか、心の光とでも申しましょうか、そういう心の光をね頂いておけれる信心。言うならば都合の良い時きゃ誰でも有り難いけれども、都合の悪い時でもお礼の言えるような信心。そういう信心を頂いておきたい。
そういう事を頂いて、この九十四節を頂いたんですけれども。そこでさき程の例に申しましたように、それこそお賽銭にもこと欠くという御信者さんをです、大事にされたその先生は、やはりね暗い所でも目が見えた人だと、私は思います。しかもそこに育った信心というのはです。例えば人間の一番大きな災難と言っていい訳でしょうね、火事にでも会うちゅうんですから。しかも三回も遭うておられるのに、遭うたんびによい信心が育っていったという。
この人なんかは、まさに例えば一番都合の悪い、一番困った事を一番大事にされた。三回目のお話しの中に有りますように、自分の家がどんどん燃えよるとにね、その後の、その後の設計をされる。自分の燃え上がっとる火事を見ながら、設計をされたその一番初めに、教会への御礼いくらいくらと書いてあったとこういう。だけではない自分の持物、自分のお金、自分の財産というものを、もう自分のものとしない。神様の御物だ神様のお金だと頂かしてもらい、分からして頂ける程の信心が育っておったという事。
どうでしょうかねぇ。例えば最初に申しますのはある先生方の話じゃないですけれどもね、その町でやっぱ有力者お金持ちさん、酒屋さんとか材木屋さんとか、あげんとば信者にしとったらどうでしょうか。もう絶対そげんとはおかげ頂きゃきらん。自分の財産家自分の財産と思うとるけんで、ほんな却ってけちなけちになる。これはもう本当にそうですから皆さんひとつですね、そういうおかげの道を開かせて頂こうと思うなら、いわば嫌な人嫌な事柄、そこを本気で大事に出来れる信心を頂かにゃいけんという事です。
信心の篤いのが真の信者じゃと。そういう信心手篤い信心が出来ておる人ならば、必ずおかげを受ける。おかげを受けた時には、今の家具屋さんじゃないですけれどもね、そういういわば真の信心が育っておる。これは信者という事だけではない。事柄の場合でもね、又はお商売をさせて頂くならば、あのうお客さんの場合でもそうである、今日はと、今日はというて、今日に限った事じゃないですけども、信心をさせて頂くなら、本当に自分に都合の悪いようなその問題をです。
よくよくそれこそ自分の手元に引き寄せておいてです、その都合の悪いその事柄をです検討してみ、真心でその事に当ってみるという生き方にならして頂いて、はぁこげん都合の悪い事の中に、こういう素晴らしいおかげがひそんでおったと、いう体験をね頂きますと、例えば不同の扱いをせんで済むです。自分には都合の悪い人。言うならばお客さんで言うならばです、この人はいつもひやかし客。この人だけはいつも着てから値切らっしゃる。こげな人から買ってもらわんでよかぞと、いうような人をですね。
こぎられるとかこぎられない、まけるとかまけんとかいう事は別としてです、そういうのを大事にさせて頂かなければいけん。私はおかげを頂いておるですね。だからそういう事を知っておるから、大事にするという訳じゃないけれども。やっぱり性根の中にそういうのが有るのですね私の心の中に。何んかこう大事にしなければおられない。お年寄りの人達がお参りして来ますと、そげんお年寄りの人達やらは、おそなえやら出来ませんよね。御用も出来ませんよ。
けれども何んか知らんけれども大事にしょうごとしてたまらんというのが、心の中にあるんです。それが私はまおかげを受けておるとするなら、おかげの元になっとるです。夕べも遅くからもう言うなら、もうぐでんぐでんに酔っ払ってから参って来た人があるんです。遠方から参って来てます。それでもう泊まって行けと言ったけれども、まぁ帰えられましたけれども。もうちょっと10時ちょと前でしたから、10時の御祈念を終わってから下がらして頂いて、まぁ私が本当に大事にする事です。
もうだから普通で言うならもう構おうごともなかというところじゃなかろうかと。こうもう誰ぁれもおらなかった。久富さんだけがあんな後に残られましたから、久富さんにまぁお茶ども入れてもろうてから。そしてまぁいうならば大事にさせて頂いて送らせて。誰ぁれも送り手がなかけん、もう11時も回りましたでしょうか。もう雨が降って来たのに帰ってまいりました。私はあぁ玄関に立ってからもう見えんごとなるまぁで、私があのう表に立ってからお礼をさせてもらった。
御祈念さしてもろうた。さぁ向こうは真っ暗ですから私が立っとるかどうか分からん、どうかわからん。私しゃ先ほどそままそしとったら、そしたらまたひっくり返って来てですね、先生がまぁだ立っちゃったけんで、もうそのう又ひっくり返って来てから、またもうそれが嬉しゅうして堪えんごたる風じゃった。もう男泣きに涙ボロボロ流してから、「有り難うございます」と言うてから帰られるんですよ。これがこの人にどういうようなものを与えるかは、それは分からんに致しましてもですね。
もう本当に厄払い。もう本当に早よう返さにゃと言ったようなもんじゃなくてですね。そういう中に私はおかげを受けるものがあると。あるからそうするのじゃないけれどもです、そういう心がいつの間にか段々育って来ておるという事です。そこで例えば今日のこの御理解を頂きますとですね。信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来るとそれを大切にするような事ではならぬ。信心の篤いのが真の信心じゃと、いうならばお供えでもどんどん出来るという都合の例えばいい。
教会の力になって下さるような人を大事にする。それとは反対の人を大事にしないという事はです、ここには書いてはありません、ここには教えておりませんけれど。こりゃもう私の体験から言うてそういう、例えば普通でなら不同の扱いをされるような人こそがです、必ず私の力になってきておるという事です。必ずそういう人達が、まぁあ言うならば道を開いてくれておるという事です。だからおかげを頂きたいなら、道を開きたいならばです本当に。そこんところを大事にしなければならん。
お商売をさせて頂くならばね、言うならつまらんお得意さんなんていうものが有ろう筈がなか。つまらんと思う程しの人ほど、私はよいお得意さんと思うてです、大事にしていくような心がけがなからなければね、商売繁昌致しませんという事。という事をですこの九十四節から分からして頂く。だからそこんところを分からして頂く為に、そういうものが育っていくおかげを頂くという事がです。
夜光時計であって明るい所ならよく目にかかるけれどもですね、暗くなっても分かるという信心。自分に都合の悪いというような事柄を、むしろ大事にするという行き方。そういう信心の中から、いわゆる答えはその次に出てくるのです、その答がです。いよいよいわゆる核心と言うかね、神様の御神意と言うか、神様の心の深さというか。を感じとらしてもらえる。ようもここを粗末にせんで済んでよかったと、後で分かるようなおかげがが頂かれるのでしょうね。
どうぞ。